取材メモ1
ゼロからのスタートを切った里谷選手が目指す新しい大技
都心を抜け東北自動車道を北上するとひんやりとした初冬を思わせる風を感じる10月下旬、私は里谷多英選手の取材に出かけました。練習場所は、世界選手権やワールドカップの舞台としても有名な、福島県猪苗代町のスキー場です。スキー場といってもまだ雪はありません。その代わり夏の時期には、ウォータージャンプ台が設置されています。ウォータージャンプは、フリースタイルスキーやスノーボードのエアーの練習をするためのもの。助走路は、一般に知られるノルディックのジャンプ台より短いイメージ。しかし踏み切り部分は、滞空時間を伸ばすためにかなり上向きに設計されています。着地部分は、怪我をしないようにプールになっていて、深さは3メートル弱。着地を心配せず、空中部分の動きを繰り返し練習するために欠かせない練習設備です。めざましテレビの生放送を終えて駆けつけた11時頃、他の一般の選手に混じって繰り返し練習する里谷選手の姿が目に入りました。スキーを履き、ウェアはドライスーツ。ヘルメットをかぶって助走を始めます。踏み切ったあとは、両手を振って弾みをつけ、思い切り縦方向の回転にトライ。そう、この縦方向の回転を含む技(3D)こそ、ゼロからのスタートを切った里谷選手が目指す新しい大技なのです。
この日の段階では、里谷選手はまだ空中での回転が安定していませんでした。大抵は不十分な体勢で1秒と立たないうちに水面にたたきつけられます。ライフベストの浮力で水面に浮上したあとは、平泳ぎでプールサイドへ。スキーを履いているので、脚はひざを曲げたまま、手のかきだけで泳ぎます。全身ずぶぬれのまま、エアリアルの工藤コーチのアドヴァイスに耳を傾け、気持ちのスイッチを入れなおし、スキーを担いでジャンプ台を歩いて登って行きます。陽の高いうちは、延々その繰り返し。長野五輪とソルトレイク五輪で2度のメダル。冬季五輪女子選手として日本人ただ一人の金。そんな栄光に満ちた肩書きからは想像もつかないほど、地道な練習です。
モーグルは、ターン技術と、エアー技術、スピード(滑走タイム)のポイントの合計で順位を競います。しかし、里谷選手が出場した94年のリレハンメルからの五輪3大会の間に、モーグル種目の性質は、どんどん進化していきました。とりわけ女子のエアー部分について言えば、長野では軒並み2種類の合わせ技で争われましたが、ソルトレイクでは3種類。そしてトリノでは、より難しい縦方向の回転を含む技を織り交ぜての高度な戦いになりそうなのです。
世界トップクラスの女子選手は、昨季からワールドカップなどで3Dの技を取り入れてきました。難しい技だけに、五輪で戦うためには1シーズン前から実戦での経験が重要という意識があってのことでしょう。日本の上村愛子選手もその中の一人。昨季7o(セブンオー)という大技に果敢に挑み、序盤戦は失敗を繰り返して順位が低迷したものの、「順位は気にせず、シーズン最後まで3Dをやり通す」という目標を自ら設定して頑張り続け、とうとうシーズン終盤の大会で技を成功させたのです。一方里谷選手は、縦方向の回転での基本的な技である「バックレイアウト(伸身後方1回転)」はほぼマスターしたものの、ひねりを加えた難しい大技はまだ試運転。今年春先にトランポリン練習で空中感覚を掴んだあと、現在は次の段階としてスキー板を履いての回転に取り組んでいるところなのです。綺麗に着"水"出来ることもありますが、成功する確率は決して高いとは言えず、競技に臨むにはもう少し時間をかけたいといったところでしょうか。
実は、1ヵ月前に会った時「子供の頃に体操をやっていたらよかったのに」と話していた彼女。スキーなら世界の誰もが認める技術を持ち合わせていても、アクロバティックな3Dのテクニックは「ゼロからのスタート」に等しかったのです。トランポリンも、ウオータージャンプも、着地に失敗した時に伴う肉体的な痛みは、3Dの練習以外で経験したものを遥かに越えると彼女は言います。痛みがひどいと練習意欲はどんどん削がれていくもの。つらいという気持ちと戦うには、並大抵の精神力では無理でしょう。もう勢いだけで頑張れる年齢ではない里谷選手。彼女は想像を絶する強さの精神力を持っているに違いないと思いました。更に、今回の取材で受けた最大の印象は、彼女の集中力です。1ヵ月前は、コーチにアドヴァイスを受けた時に、考え込んだりイメージに時間を割く場面が印象に残りましたが、今回は、アドヴァイスもすっきり頭に入るようで、とても集中できているように感じました。
トリノ五輪出場に向けての戦いの場となる今季初戦は12月13日。この取材日から数えて約1ヵ月半です。ただし技の最終的な完成までは、まだ何段階かのステップがあります。技が安定した後は、雪上での練習に移ります。ウォータージャンプなら、どんな姿勢で落下してもそれほどショックはありませんが、雪上ではそうはいきません。そんな中でもしっかりと着地できるようになり、最終的にはギャップのあるモーグルバーンで前後の滑りにエアーを組み込むまでの作業が必要です。これからの練習日程は、時間との戦いになっていきそうです。そんな中里谷選手は「ターン練習は10日間で大丈夫」と話します。この点は、世界ナンバーワンのスキーテクニックを備え、大舞台を戦い抜いた彼女にしかわからない自信と感覚なのでしょう。一方ターンを含むスキー技術を中心に、里谷選手につきっきりでアドヴァイスを送るスティーヴコーチは「シーズン始めはスキーの技術練習を1ヵ月はやりたい」と話します。だからと言って、3Dエアー完成へのプロセスを端折るわけにも行きません。気持ちの表し方は異るものの、二人ともきっと今までにない不安と戦っていることでしょう。
さて、ここに来て3Dの話題が何かと取り沙汰されるモーグルですが、実はエアーが得点を占める割合は25%に過ぎません。この他に、スピード(滑走タイム)が25%、そして、残る50%はターンの技術。つまり、エアーの難易度が高くなっても、競技の基本であるターンの良し悪しが得点を大きく左右することは、当然ながら変わらないのです。里谷選手のターン技術の高さは、世界トップと言えるでしょう。「だったら、それほど難しい技に拘らないほうが良いのでは?」という考え方もあるかもしれません。それでもなお難しい3Dに果敢に挑むのは、里谷選手は、世界の頂点だけを見据えているからなのではないかと思います。彼女の驚くほど前向きな姿は、五輪のディフェンディングチャンピオンというより、挑戦者そのもの。ゼロからのスタートという"気持ち"に"行動"が完全にかみ合っていると感じた今回の取材でした。今は先ず五輪の出場権を得ること。それは12月13日開幕のワールドカップでの滑りにかかっています。残りわずかの時間でどう仕上げていくのか、普通のアスリートならとても越えられない壁に、里谷選手は今挑んでいます。
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奥寺 健 誕生日:1967年8月19日 出身地:東京都 出身大学:電気通信大学大学院 血液型:A型 趣味:楽器をみんなで弾いて遊ぶこと、スキー&スピードスケート、 迷子のような旅 |